代表 渡邊崇志のメッセージ

小さな宿の感動から地域と世界をつなぎ、人や文化に寛容な人材と多文化共生社会を目指します。

代表 渡邊崇志 年表

1999年9月 家業を継がず家出
2008年1月 企業をやめ渡米 住所不定無職に
2008年2月 米国カリフォルニアに無賃留学
2008年9月 同志社大学大学院にて社会起業プログラムに参加
2008年10月 六本木の外資系ホテルで修行
2009年1月 品川宿の「まちづくり協議会」参加、まちづくり修行
2009年2月 浅草のバックパッカー向け旅館で修行
2009年8月現在のゲストハウス品川宿の物件と出会う。
融資先、保証人さがしに奔走
2009年10月 ゲストハウス品川宿をOPEN
2011年 2月 宿場JAPANプロジェクトスタート DETTI受入れ
2012年10月 姉妹宿 長野「ゲストハウス蔵」OPEN
2013年 6月 地域融合型シェアハウス品川宿OPEN
2014年12月 Bamba Hotel OPEN

開業までのストーリー「夢をカタチに」

転機

高校3年生のとき、祖父の創業した食肉問屋を継いだ叔父から「家業を継ぐか、出ていくか」という決断を迫られました。仕方なく家を出て高校に通いながら一人暮らしを始めました。所属していたラグビー部伝統の清掃アルバイトで食いつなぎ、1浪してなんとか観光の授業のある大学に合格しました。

一人旅と語学への関心

学費は奨学金で何とかなりましたが、家賃と生活費を稼ぐためにアルバイトの日々。寝る間も惜しんで働いたおかげで2年生の後半には少し余裕ができ、アルバイトの合間にバックパックを背負って海外に一人旅に出るようになりました。それが自分への特別なご褒美だったのです。やがて「ヒトとヒトをつなぐ道具」として語学への関心が深まり、3年生の夏にはヨーロッパへの留学を試みました。しかし資金面で叶わず、結局中国の北京へ短期留学することになりました。

留学先での経験

留学中に様々な国の学生達とコミュニケーションを取ることで「日本人が中国や他の国の人々からどのように思われているのか、戦時中どんなことをしてきたのか」深く考えるキッカケを得ました。そこで出会った親友の父親が戦犯を言及したカメラマン(故・新井利男氏) だった事も影響し、心の中で使命感のようなものが芽生えたことを覚えています。わずか1ヶ月程の留学期間でしたが、この時知り合った友人との絆がその後の原動力にもなりました。

バックパックと国際交流

バックパックの一人旅では安宿(=ゲストハウス)に泊まり歩きました。そこには通常のホテルの滞在では経験できない、地域の人々との会話や庶民の生活に触れられる機会があり、その中で文化や考え方の違いを理解するという大切さを学びました。また当時日本にはゲストハウスというものがほとんど無く、それは何故だろうという疑問も抱いていました。旅の間は危険な目に遭ったり騙されることもありましたが、国籍も宗教も年齢も全く異なる環境の「ヒト」同士がつながる喜びと楽しさに勝るものはありませんでした。

時代と世代で異なる外国人に対する価値観

あるとき母親からこんなエピソードを聞きました。それは母がその昔、在日の韓国人の友達と遊んでいたことを理由に、優しく知的だった祖父から平手打ちを喰らったというもの。とても衝撃を受けると同時に、「何かしなくては・・・」という使命感を改めて感じました。大学卒業後は周囲の勧めもあり一度企業に就職。3年6ヶ月の社会人生活を過ごしましたが、このままでは何も変わらないということに気づいたのです。自分ひとりでも社会を変える働きをしなければならない、そんな想いから、会社を辞めゲストハウス開業のために奔走することになります。

アメリカ留学で得たもの

語学力の向上と異文化理解をさらに深めるべく、中国留学時代の友人のつてでアメリカへ行くことに。友人の旦那さんの実家に転がり込むようにホームステイをさせてもらいました。移民学校で英語を学びサークル活動に参加する中で、自分を表現することの大切さを学びました。「あなたは何がしたいの?」と日常的に聞かれる環境においては、自分のやりたいことをきちんと伝える必要があったからです。周りの生徒たちも志が高くやりたいことがはっきりとしており、そういう意味でみな自立しているように感じました。そんな環境が新鮮であり、また良い影響を受けました。

修行と勉強

アメリカから帰ってきたものの帰る家もなく、友人の家を点々とする日々。外資系ホテルのメンバーズラウンジで派遣社員スタッフとして週6日働き、残りの1日は夜行バスで京都へ。大学院でソーシャルイノベーション型再チャレンジ育成プログラムを専攻し、NPOや社会起業を学びました。そこで品川宿にゲストハウスを開業する計画(バックパッカーズ品川宿計画)をブラッシュアップする、そんな生活が約半年間続きました。

旧東海道品川宿周辺まちづくり協議会・堀江会長との出会い

2008年の終わり頃、以前住んでいたアパートの自治会長から紹介されたのが堀江さん。堀江さんは「旧東海道品川宿周辺まちづくり協議会」の会長で、この出会いが転機となり品川宿での生活を再開することに。同時に勤めていたホテルを辞め、昼は品川宿の観光案内ボランティアと外国人向け旅館での無賃修行、夜は堀江会長の経営するスーパーでレジ業務。またお祭りの手伝いなど地域の手伝いで汗を流しました。

堀江会長

物件との出会い

自身の活動を知ってもらうため商店街から役所や保健所、周辺企業などに声をかけて回る中、行政の方から近隣でビジネス旅館が廃業するという情報をいただきました。そこの大家さんがたまたま元町会長であったこともあり、貸していただける可能性が出てきました。とはいえ資金も保証人も無い中、それらを用意するのに提示された期限はたったの3週間。もう出来ることをすべてやるしかないと腹をくくりました。

ゲストハウス開業資金の調達

まずは18歳で家を出て以来、出入りしていなかった実家に足を運びました。今は亡き母に頭を下げ、資金の3分の1を借してもらうことができました。「楽しんでるか?楽しんでるなら息子の人生にかける」と予想外な二つ返事だったことに驚きました。保証人に関してはまちの顔役の方2名が保証人を名乗り出てくれました。その2名と大家さんとの元々のつながりのおかげもあり、大家さんが賃貸に前向きになってくださいました。

ゲストハウス開業へ

資金の残り3分の2の半分は、商店街を通して行政の創業支援サービスを使い、融資を得ることに成功しました。残りの資金を調達するため商店街などでプレゼンテーションをして回っていたある日、とある会合中に手書きメモを渡してくれた方がいました。タイムリミットも迫っている最中、そこに書かれていたのは「お金のことはなんとかする」の文字。それを見た途端、その場で号泣してしまいました。その後は順調に事が運び、2009年10月15日の開業にこぎつけることができました。

夢を実現できる条件

ゲストハウスを始めたいという方から「~という状況でも夢を実現できると思いますか?」という質問をいただくことがあります。私は決まって「本気でやろうと考え動きつづけている限り、実現できる」と答えています。私自身、会社をやめた直後は「この場所でやりたい」という気持ちがあるのみで、お金も人脈も英語力も無く、物件の目処すらたっていませんでした。そんな状況でしたが目標を持ち、出来る限りのことを精一杯やっていく中で本当にたくさんの方々に助けて頂きました。そしてその気持ちに報いたいという思いが夢の実現への手助けとなりました。ゲストハウス品川宿は私だけのものではなく、助けて頂いた皆さんのものでもあるのです。今日でも日々の営業の中で、その感謝の気持ちを忘れることはありません。